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AIに自分より先に、自分を知られたくない

2026年08月25日 2 views

『21世紀のための21のレッスン』を読みました。ハラリの本を読むのはこれが初めてではありませんが、この本を読み始めたときは、もっと「これから世界はどうなるんだろう」という話を読むつもりでした。AIが進化して、仕事が変わり、社会の仕組みも変わっていく。そんな少し遠い未来を想像していたんです。

でも、読み終わってから頭に残っていたのは、意外にも未来そのものではありませんでした。むしろ、「私は、自分のことをちゃんと分かっているんだろうか」という、もっと身近な疑問でした。

この本では、AIやバイオテクノロジーの発達によって、これまで人間が当たり前だと思ってきたものまで大きく揺らぐ可能性が描かれています。仕事のこと、民主主義のこと、自由意志のこと。そして、「自分」という感覚さえも。その中で特に気になったのは、AIに仕事を奪われるという話より、AIが人間のことを人間自身よりもよく理解するようになるかもしれない、という話でした。

たとえば、何かを買うとき、私は自分で「これが欲しい」と思って買っているつもりです。SNSを見て、気になるものを見つけて、少し調べて、最後は自分で決める。でも、その「自分で決めた」という感覚は、本当に自分だけのものなんでしょうか。

どんな広告に反応するのか。どんな言葉に弱いのか。どんなときに寂しくなるのか。どんな写真を長く見ているのか。そういうものを全部データとして集めていけば、アルゴリズムのほうが「この人はこういう人間です」と、自分より正確に説明できるようになるかもしれません。

自分のことなのに、自分より他の何かのほうがよく分かっている。それが人間ではなく、アルゴリズムだったら、なんだか嫌ですね。

読みながら、普段何気なくやっていることまで少し気になるようになりました。スマホを開いてSNSを見るときも、「今、本当に自分が見たいから開いたのかな」と考えてしまう。もちろん、そんなことを考えたところでSNSをやめるわけでもなく、結局また開いてしまう。でも、一度そういう視点を持ってしまうと、今まで何も考えずにやっていたことが少し違って見えてきます。

そこから「自由意志」の話につながっていくのも面白かったです。私たちは普段、「自分がそうしたいから、そうする」と考えています。でも、もし自分の感情や欲望や選択が、脳の中で起きている生化学的な反応の結果だとしたら、「自分で決めた」という感覚そのものも、あとから脳が作っているものなのかもしれない。

そう考え始めると、急に「自分」というものが少し分からなくなります。

昨日まであんなに欲しかったものが、今日はどうでもよくなっていることがあります。すごく腹が立ったことも、数日経つと「なんであんなに怒っていたんだろう」と思う。悲しくて仕方がなかったことが、時間が経つと少し笑って話せるようになることもあります。

感情は、思っているよりずっと簡単に変わります。それなのに、その時々の感情や記憶をつなげて、「これが私」と思っている。そう考えると、自分というものも、意外と不思議なものです。

この本を読んでいて、もう一つ意外だったのが芸術についての話でした。AIが人間の仕事を奪うと言われると、私はこれまで、まず事務作業や単純な作業を想像していました。絵や音楽のようなものは、最後まで人間の領域として残るんじゃないかと、なんとなく思っていたんです。

私は以前、イラストに関わる仕事をしていたことがあるので、AIと創作の話になると、どうしても少し立ち止まってしまいます。絵を作るときは、ただ「きれいなもの」や「人の目を引くもの」を作ればいいわけではありません。何を描くのか、何をあえて描かないのか。どこに違和感を残すのか。見た人にすぐ伝わらなくても、その人の中に何かが残るようにするにはどうしたらいいのか。そういう、数字にはなりにくいことまで考えながら、一枚の絵を作っていきます。

だから私は、AIが人間の感情を分析して、「多くの人が好むもの」や「人の心を動かしやすいもの」を作れるようになったとしても、それをそのまま芸術の進化だとは思えません。人の目を止めることと、作品が人の心に残ることは、私の中では少し違います。どんな色を使えばクリックされるのか、どんな構図なら最後まで見てもらえるのか、どんな音や言葉なら感情を刺激できるのか。そういうものを完璧に計算できるようになったとしても、それだけで「いい作品」が生まれるとは思えないのです。

最近は、広告やメディア、SNSのコンテンツでもAIで作られた画像や動画をよく見かけます。「数分で作れた」「ほとんどお金がかからなかった」と誇らしげに語られているのを見ることもあります。でも、私はそれをすごいと思うより、少し寂しい気持ちになります。時間やお金をかけずに作れることが、いつの間にか作品の価値そのものになってしまったように見えるからです。

もちろん、すべてのものに時間をかければいいと思っているわけではありません。それでも、誰かが何日も考えて、迷って、作り直して、その人にしか作れなかったものと、たくさんのデータから「人が好みそうなもの」を計算して作ったものを、私は同じようには受け取れません。

作品の中にある少しの不器用さや、説明できない違和感。その人が何を見て、何を感じて、どうしてこんなものを作ってしまったのか分からない部分に、私は惹かれます。効率よく作られた「正解」よりも、少し遠回りをしてでも、その人自身が残っているものを見たい。

だからこそ、AIが人間よりも正確に人の好みを理解し、人を惹きつけるものを作れるようになる未来を想像すると、怖いというより少し悲しくなります。それを「すごい」と受け入れていくうちに、私たち自身が、作品に何を求めていたのかまで忘れてしまう気がするからです。

本の中では、AlphaZeroの話も出てきます。AIがチェスを学習し、人間には思いつかなかったような手を打つようになったという話です。「創造性は人間だけのもの」と思っていたのに、機械が人間には理解できないような方法で新しいものを生み出していく。

これを読んで、「AIってすごいな」と思うより、「じゃあ、人間らしさって何なんだろう」と考えました。頭がいいことなのか。絵を描けることなのか。新しいものを作れることなのか。人間だけのものだと思っていたものが、一つずつ機械にもできるようになったら、最後に何が残るんだろう、と。

そんなことを考えていると、最後のほうで出てくる「瞑想」の話が意外とすんなり入ってきました。ここまでAIや政治や経済の話をしていたのに、最後に出てくるのが「自分の心を観察すること」なのが面白い。でも考えてみると、かなり自然な流れなのかもしれません。AIが人間を理解しようとしているなら、その前に自分で自分のことを見てみる。

今、何を考えているのか。何を感じているのか。なぜそう感じているのか。そういうものを、すぐに良い悪いと判断せず、そのまま観察してみる。

私は瞑想を毎日しています。ただ、一般的にイメージされるような、静かに座って呼吸に集中する時間とは少し違います。私にとって一日の中でもかなり好きなのが、夜、眠りに落ちる前の時間です。部屋が静かになって、もう何もしなくていい時間になると、目を閉じたまま、頭の中でいろいろな場所へ行きます。

その日にあったことをもう一度思い出すこともあります。楽しかった瞬間を何度も再生したり、少し悲しかったことを別の角度から眺めてみたり。過去の出来事を思い出すこともあれば、まだ起きていない未来を勝手に想像することもあります。「こうなったらいいな」と思う未来もあれば、「もしこんなことが起きたらどうしよう」と少し怖くなる未来もあります。

でも、現実の延長にあるものばかりではありません。アニメや漫画の世界に入り込んでいることもあるし、韓国ドラマや中国の時代劇の登場人物になっていることもあります。読んだ本の中にもう一度戻って、その世界の続きを勝手に作っていることもあります。昨日まで人間だったのに、今日は猫になっていることだってあります。

現実では絶対に起こらないようなことまで、毎晩好きなように妄想して、そのまま眠りに落ちていく。気づけばもう夢の中にいて、一日の終わりはだいたいそんな感じです。

私にとってそれは、「何も考えない」時間ではありません。むしろ、一日の中でいちばん自由に考えられる時間です。誰にも見られないし、何を想像してもいい。過去を少し書き換えてもいいし、まだ来ていない未来を先に生きてみてもいい。現実では選ばなかった人生を、頭の中だけで少し歩いてみることもできます。

だから、この本で瞑想について読んだときは少し不思議な気持ちになりました。私が毎晩やっていることは、ハラリが書いている瞑想とはたぶん違います。瞑想が「現実に起きていることをそのまま観察する」ことだとしたら、私はむしろ、自分から新しい物語を作って、その中へ入り込んでいる。

それでも、その時間があるからこそ、自分が何を望んでいるのか、何を怖がっているのかが少し見えることもあります。何度も同じ未来を想像しているときは、そこに自分の願いがある。逆に、何度も嫌な結末を考えてしまうときは、自分でも気づいていなかった不安が隠れている。

空想しているだけのつもりなのに、頭の中を歩き回っていると、ときどき現実の自分が置いていったものに出会うことがあります。

AIに自分より先に自分を知られたくない、と思ったとき、最初は、自分のことを知るためにもっと「正しく」瞑想しなければいけないのかと思いました。でも、必ずしもそうではないのかもしれません。毎晩、自分の頭の中を好きなように旅するあの時間も、私にとっては十分に「自分の中にいる時間」です。

もちろん、そこに出てくるものがすべて本当の自分だとは思いません。猫になっている夜もあるので。

ただ、そんなふうに自分の頭の中を眺めていると、感情がどれほど簡単に変わるものなのかも分かります。さっきまであんなに腹が立っていたのに、数時間後には普通にご飯を食べている。ものすごく欲しかったものも、数日後にはどうでもよくなる。それなのに、その瞬間には「これが本当の私の気持ちだ」と信じてしまう。

もしかすると、自分を知るというのは、「私はこういう人間です」と答えを決めることではなくて、その時々に自分の中で何が起きているのかを見続けることなのかもしれません。

そして、もう一つ印象に残ったのが、情報が多いことと、物事を理解していることはまったく違う、ということでした。SNSを開けば、毎日たくさんのニュースが流れてきます。誰かの意見も、専門家の解説も、怒りも、不安も、次から次へと入ってくる。何かについて知ろうと思えば、すぐに検索できる。でも、情報が増えるほど、自分が何を考えているのか分からなくなることもあります。

「これは正しい」「これは間違っている」「こうするべき」「これが幸せ」。そんな答えが毎日たくさん流れてくる中で、自分で考えているつもりでも、いつの間にか誰かの言葉を借りているだけなのかもしれません。

だから、本の中に出てきた「明晰さは力である」という言葉が印象に残りました。たくさんの情報を持つことよりも、何が分かっていて、何が分からないのかをちゃんと区別できること。そのほうが、今の時代には大事なのかもしれません。

『21世紀のための21のレッスン』は、読んでいてずっと安心できる本ではありませんでした。AIが仕事を奪うかもしれない。人間の意思決定までアルゴリズムが理解するかもしれない。人間だけのものだと思っていた創造性さえ、機械が持つようになるかもしれない。

そういう話を読みながら、「じゃあ、人間には何が残るんだろう」と何度も考えました。

でも、読み終わってみると、未来が怖くなったというより、今まで当たり前だと思っていた「自分」というものを少し疑ってみたくなった、というほうが近い気がします。自分の選択は本当に自分のものなのか。自分の感情を、自分はどこまで理解しているのか。毎日たくさんの情報を受け取る中で、今考えていることは本当に自分の考えなのか。

たぶん、すぐに答えを出す必要はありません。むしろ、この本を読んで「分からなくなったこと」が増えたのは、悪いことではない気がします。簡単な答えをもらうより、少し気になる問いを抱えたままのほうが、そのあとも長く考え続けられるからです。

AIがこれからどこまで進むのか、私には分かりません。どんな仕事が残るのかも、人間がどんな存在になっていくのかも分からない。

でも、もし本当にいつか、AIが私のことを私よりよく理解する日が来るのなら、その前に、自分の心くらいは自分で少し分かっておきたい。

そんなことを考えながら、本を閉じました。

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