六甲山から宝塚まで、予定を外れた日
9時に登り始める予定だった日。東おたふく山登山口から入り、東お多福山を抜けて、六甲山最高峰まで行って、そのままいつも通り戻るつもりでした。天気もよくて、人もほどよくいて、すべてが「予定通りに進みそう」な、少し安心した空気のある朝でした。
後鉢巻山に着いたとき、宝塚駅の方向を指す標識が目に入りました。友達が「こっち行ってみる?」と軽く言って、私はほんの少しだけ立ち止まりました。普段なら、おそらく選ばない選択です。山でルートを変えるというのは、思っているよりも不確定な要素が増えるものだからです。それでもその日は、なぜか大丈夫な気がしました。空は明るくて、人の気配もあって、体もまだ軽くて、そして何より、ほんの少しだけ予定から外れてみたいという気持ちが、自分の中にあったのかもしれません。
調べてみると、追加で13kmほど、時間にして5時間少し。到着は夕方にはなるけれど、決して無理な距離ではありませんでした。そのまま、特に強く決めたわけでもなく、自然と進む方向を変えました。
歩き続けているうちに、気づけばいくつもの小さな山頂を通っていました。それらはメインの登山道の延長線上にあるわけではなく、500mや1kmほどだけ少し外れた場所にあるような、寄り道のような存在でした。でも、その「少し外れる」という感覚が、思っていた以上に印象に残っています。
標識のない山もいくつかありました。木に小さく名前が刻まれているだけで、それを探すのに時間がかかったり、結局見つけられないまま通り過ぎてしまったりもしました。水無山に関しては、最後まで「本当にここだったのか」という確信が持てないまま、少し曖昧な感覚を残して通過しました。一方で、大平山にはなぜか標識が二つ並んでいて、そのちぐはぐさが少しおもしろく感じられたり、岩原山では積み上げられた石が静かに残っていて、そこに誰かの手の痕跡のようなものを感じたりもしました。
譲葉山のあたりは、確かに通ったはずなのに、目印らしいものが何もなく、ただ「通り過ぎた」という感覚だけが後に残っています。それに対して岩倉山では、小さな祠のようなものがあり、ほんのわずかですが空気が変わるような、そんな静かな違和感がありました。どれも特別な景色だったわけではないのに、それぞれの場所が、不思議とちゃんと記憶に残っています。
後半になるとさすがに疲れも出てきて、譲葉山北峰には向かいませんでした。無理をすれば行けたのかもしれませんが、そのときは「もう十分だな」と自然に思えました。たくさんの頂上を踏むことよりも、ここまで流れてきた時間や選択の積み重ねの方が、自分にとっては大事に感じられていたからです。
17時ごろ、宝塚駅に到着しました。街は静かで、どこか整いすぎているくらいに穏やかで、建物の雰囲気もやわらかく、歩いているだけで気持ちが落ち着いていきました。こんな場所で、何か特別なことをしなくても、ただ日々を過ごしていくだけでもいいのかもしれないと、そんなふうに思えました。
予定通りに帰るはずだった一日が、少しだけ長くなり、少しだけ遠くまで続いていました。すべてを計画通りに進めなくてもいいのだと思えたのは、たぶん久しぶりだった気がします。
あの日の写真は、こちらにまとめてあります。